雪やこんこん

本日関東は初雪ということで、わたしは外に一歩もでず家に引きこもっている。雪が積もれば少しくらいテンションは上がるが、ふわふわと舞う程度の雪は寒さが増すだけで、わたしにとっていいことはない。増してや雪が雨に変わってしまったりすれば最悪である。

 

仕事が始まれば当然雨や雪の日にも出勤しなければならない。どこへ行くにも傘のやり場に困り、雨や雪の染み込んだ服を着たまま一日を過ごすと思うと憂鬱だ。企業にはぜひレイニーデイorスノーデイとしてテレワークを取り入れて欲しいところである。

 

そういえば日本の動揺に「雪」という歌がある。

 

雪やこんこん 霰(あられ)やこんこん

 

とは言うけれど、こんこんって一体なんだろう?昨晩彼とそんな話をしたが、日本語には雪がこんこんと降るという表現があるようだ。しんしんという表現は知っていたが、これは知らなかったので勉強になった。

 

でも実のところこの動揺の歌詞、「こんこん」ではなく「こんこ」らしい。そうなると、いよいよよくわからないし、作詞・作曲者も不明でミステリーな動揺というイメージになってきた。そんな謎だらけの動揺「雪」、ぜひみなさんもヤホーで検索してみてください。

 

クリエイティブの代償

月日というのはあっという間に経ってしまうもので、世間は今年に入ってもう10日目になるようだ。

 

わたしはこの間なにをしていたかといえば、まあまずは就活だろうか。ひとまず就職先が決まったことには安心しているが、目先のお金が心配なので今はアルバイトを探している。

 

しかし、緊急事態宣言が社会に与える影響はやはりすごいようで、どこもかしこも時短営業、人員削減である。よって、仮に採用されたとしても、なかなか満足な金額を稼げるほど働かせてもらえないのが現状だ。お店を経営している人たちが窮地に追いやられていることに比べれば、なんてことないと思われてしまうかもしれないが、稼ごうと思っても稼げない今の状況には、正直とても参っている。本業だって時短勤務でコロナの影響を受けているし、叩かれる覚悟でいうけどマジで給付金配ってくれ。

 

 

はい。愚痴とつまらない話はこのくらいにして。

 

と思ったけれど、更新した記事を振替ってみれば楽しい話題なんて一つもないじゃないか。我ながらつまらない人間すぎて悲しくなる。こういう風にすぐ悲観的になるところがいけないのだろうけれど。

 

言ってるそばからこんな感じであまり楽しい話はできそうにない。昔はもうすこし色んなことを楽める人間だったよなあ。なんて思っていたら、このことについてもう少し掘り下げて考えてみたくなってきた。

 

わたしは元々根明ではない。どちらかといえば根暗だったけれど、スイッチを切り替えて明るい自分を演じられていたし、不満等といったマイナスな感情があっても見て見ぬ振りをするのが大得意だった。もちろんその時から気分の波はあったけれど、学生時代は自分勝手に1週間程の休暇をつくれば、またいつも通りに生活できる程度だった。

 

兄弟や友達に趣味があることが羨ましくて、ちょっと強引につくったアニメや特撮といった趣味もあった。にわかとはいえそこそこハマれていたし、わたしはこういう人ですって説明できたほうが人との会話も弾んで楽だった。今考えると浅いよなあと思うけれど、昔は良い意味でも悪い意味でも楽観的にいられたと思う。

 

そんなわたしが変わってきたのは今から2〜3年程前、現在同棲中の彼と付き合い始めてからだ。彼はクリエイティブな思考の持ち主で、一から作品を生み出すことができる。

 

一方わたしはといつと、クリエイティビティは全くないに等しい。そのため昔から芸術的才能がある人には一目置いていて、まさか自分がそれ界隈の人と一緒になるとは思いもしなかったけれど、クリエイティブなだけに複雑な思考を持つ孤独な彼を助けてあげられるのは、自分だけだろうという自負がある。繊細で誠実で等身大のまま愛していいんだと思えるから、彼のことはめちゃくちゃ好きだ。

 

と、ちょっと惚気話になってしまったけれど、そんなこんなで今のわたしの暮らしの中心には彼がいて、その彼はいつも隣で純粋に良い作品をつくろうと企んでいる。そんな人と一緒に居ると、現代の商業的思考まっしぐらな人やものたちは、とてもくだらないものに思えてしまう。まあ自分は大した人間ではないから、なにかに物を申す資格はないのだけれど。

 

ただ流行っているから、見た目が良いからとかいう薄っぺらい理由だけでは、世の中のものを好きになれなくなってしまったんだよなあ。当然流行りに流される大半の人たちとは話が合わず、ああ、つらい生き方を選んでしまったなあと思ったりもする。

 

でも自分の目で見て判断する能力が身についたことは誇らしいし、思えば昔から世間や人に合わせることが何よりものストレスだったので、彼に出会ったことで今まで抱えていたモヤモヤの正体が明確になり、騙し続けていた心をようやく自分のものにできたという喜びの方が大きい。

 

そして、より洗練された感覚を持つわたしがこの世の中を楽しく生きて抜くためには、限られたものの中で楽しめるものを見つけ、世の中の流れを他人事として見る必要がありそうだ。

 

世間のくだらなさを知ってしまったら、その時点でなにも楽しめず人生が終わった気がしてしまうけれど、そのなかでもクソ喰らえの根性で希望を失わずに生きていきたい。

身の丈を知れ

2021年になったと同時に、新年の抱負について述べるツイートをよくみかけた。年明け直後は到底目標を掲げられるような精神状態ではなかったが、再就職先が決まり少しは気持ちが落ち着いてきたので、そろそろわたしも今年の軸となる目標を決めておこうと思う。

 

ちなみに昨年の抱負はなんだったのかというと、

 

・安定して稼げるようになる

・家事と仕事を両立する

・他人とうまくやる

・話し合いをして他人と理解し合う

・精神科不安にならない

 

といったところだ。

 

今見れば無謀な目標だということは一瞬で理解できるが、これができれば理想の自分になれると疑わなかったわたしは、それに向かって努力した。

 

まあお察しの通り、これらの目標たちは一つでも達成されることはなかった。すべてが中途半端で自信をなくしてしまったわたしは鬱状態になり、パートナーに多大なる迷惑をかけるという最悪な結末になりました。

 

そして、昨年の反省を踏まえて考えた今年の抱負は以下のツイートに記されている。

 

 

我ながらレベルの低い目標だとは思うが、昨年と同様口だけの女になってしまうことは、なんとしても避けたいと考えた結果である。

 

目標は高い方がいいなんていう教えがあるけれど、あれには向き不向きがあると思う。高い目標を立てることで己を奮い立たせることのできる人もいれば、さまざまな理由で目標に見合うだけの努力をすることができずに、返って落ち込んでしまう人もいるだろう。

 

わたしはどう考えても後者だ。目標なんてものは未来の自分の幸せを願って立てるものなのだから、身の丈にあったものを設定し、達成した喜びを感じられたほうが良い。わたしには己のメンタルを追い込むリスクを抱えるほどの若さやタフさは無いし、年々自分の残念さが身に染みてきたところなので、無理なことは言わないくらいが丁度いい。

 

さて、この記事を書き始めた当初は2021年の抱負について掘り下げていこうと考えていたが、いざ赤裸々に語ろうとすると恥ずかしくなってきてしまった。

 

そもそもこのブログ自体、誰かに見て欲しいようで見て欲しくないといった曖昧な気持ちで書いているので、全てをさらけだそうとするとストッパーが作動してしまうのは仕方がないのかもしれない。

 

また書きたいと思える時がきたら、その時はもう一度向き合ってみようと思う。

-幕開け-2021

本日は派遣サイトの紹介で職場見学へ行き、そのままそこの会社に就職が決まった。昨日の投稿では社会への不満を嘆いていたわたしだが、正直すごく嬉しいし心底安心している。

 

ただただスマホとにらめっこをして職探しをしている時は、このご時世で本当に再就職できるのかと不安で仕方なかったけれど、決まる時はすんなり決まるものですね。2021年、遅ればせながらようやくスタートを切れました。

 

任される仕事はそんなに難しいものではなく、簡単な業務でもいいから自信を持って取り組みたいタイプのわたしには、なかなか向いていると思う。

 

そして、当初の予定にはなかったが、もしかするとフリーランス時代の経験を生かした仕事も任せてもらえるかもしれない。フリーランスとして一人前に稼ぐことはできなかったが、その経験が何かしらの形でお役に立てるのであればとても光栄だし、芽が出なかった過去の自分を肯定してあげてもいいような気になれる。もしそれが実現すれば、仕事に意味を見出すことが苦手なわたしでも、なんとなくやりがいなんてものを見つけられる日がくるのかもしれない。

 

なんて、昨日までの憂鬱が嘘みたいに前向きな言葉を並べる自分に薄気味悪さを感じつつも、この気持ちが継続してくれるようにお祈りをしながら、今夜は眠りにつきます。アディオス。