クリエイティブの代償

月日というのはあっという間に経ってしまうもので、世間は今年に入ってもう10日目になるようだ。

 

わたしはこの間なにをしていたかといえば、まあまずは就活だろうか。ひとまず就職先が決まったことには安心しているが、目先のお金が心配なので今はアルバイトを探している。

 

しかし、緊急事態宣言が社会に与える影響はやはりすごいようで、どこもかしこも時短営業、人員削減である。よって、仮に採用されたとしても、なかなか満足な金額を稼げるほど働かせてもらえないのが現状だ。お店を経営している人たちが窮地に追いやられていることに比べれば、なんてことないと思われてしまうかもしれないが、稼ごうと思っても稼げない今の状況には、正直とても参っている。本業だって時短勤務でコロナの影響を受けているし、叩かれる覚悟でいうけどマジで給付金配ってくれ。

 

 

はい。愚痴とつまらない話はこのくらいにして。

 

と思ったけれど、更新した記事を振替ってみれば楽しい話題なんて一つもないじゃないか。我ながらつまらない人間すぎて悲しくなる。こういう風にすぐ悲観的になるところがいけないのだろうけれど。

 

言ってるそばからこんな感じであまり楽しい話はできそうにない。昔はもうすこし色んなことを楽める人間だったよなあ。なんて思っていたら、このことについてもう少し掘り下げて考えてみたくなってきた。

 

わたしは元々根明ではない。どちらかといえば根暗だったけれど、スイッチを切り替えて明るい自分を演じられていたし、不満等といったマイナスな感情があっても見て見ぬ振りをするのが大得意だった。もちろんその時から気分の波はあったけれど、学生時代は自分勝手に1週間程の休暇をつくれば、またいつも通りに生活できる程度だった。

 

兄弟や友達に趣味があることが羨ましくて、ちょっと強引につくったアニメや特撮といった趣味もあった。にわかとはいえそこそこハマれていたし、わたしはこういう人ですって説明できたほうが人との会話も弾んで楽だった。今考えると浅いよなあと思うけれど、昔は良い意味でも悪い意味でも楽観的にいられたと思う。

 

そんなわたしが変わってきたのは今から2〜3年程前、現在同棲中の彼と付き合い始めてからだ。彼はクリエイティブな思考の持ち主で、一から作品を生み出すことができる。

 

一方わたしはといつと、クリエイティビティは全くないに等しい。そのため昔から芸術的才能がある人には一目置いていて、まさか自分がそれ界隈の人と一緒になるとは思いもしなかったけれど、クリエイティブなだけに複雑な思考を持つ孤独な彼を助けてあげられるのは、自分だけだろうという自負がある。繊細で誠実で等身大のまま愛していいんだと思えるから、彼のことはめちゃくちゃ好きだ。

 

と、ちょっと惚気話になってしまったけれど、そんなこんなで今のわたしの暮らしの中心には彼がいて、その彼はいつも隣で純粋に良い作品をつくろうと企んでいる。そんな人と一緒に居ると、現代の商業的思考まっしぐらな人やものたちは、とてもくだらないものに思えてしまう。まあ自分は大した人間ではないから、なにかに物を申す資格はないのだけれど。

 

ただ流行っているから、見た目が良いからとかいう薄っぺらい理由だけでは、世の中のものを好きになれなくなってしまったんだよなあ。当然流行りに流される大半の人たちとは話が合わず、ああ、つらい生き方を選んでしまったなあと思ったりもする。

 

でも自分の目で見て判断する能力が身についたことは誇らしいし、思えば昔から世間や人に合わせることが何よりものストレスだったので、彼に出会ったことで今まで抱えていたモヤモヤの正体が明確になり、騙し続けていた心をようやく自分のものにできたという喜びの方が大きい。

 

そして、より洗練された感覚を持つわたしがこの世の中を楽しく生きて抜くためには、限られたものの中で楽しめるものを見つけ、世の中の流れを他人事として見る必要がありそうだ。

 

世間のくだらなさを知ってしまったら、その時点でなにも楽しめず人生が終わった気がしてしまうけれど、そのなかでもクソ喰らえの根性で希望を失わずに生きていきたい。